昭和四十五年六月二日 朝の御理解


御理解第六十一節 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」


 神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞと。限りなくおかげが受けられる。その元になる話を残しておくと。この通りであります。金光様の御信心を頂いて、教えを元にした生活が出来るところに、これは限りがない無尽蔵のおかげの宝庫とでも申しましょうか。そういう宝庫の鍵というものは、金光大神がいつまでも尽きぬおかげを話にして残しておくとおっしゃる、その話にあるのです。この方の道は、祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かる道とおっしゃるのですから、そのお話こそが無尽蔵のいわゆる宝庫の鍵とも云える訳です。
 先日もある先生が見えられまして、毎月月参りをされます。ここの御理解テープを借りて行って、もうひと月に一巻を、もう実に信者と一緒に繰り返し繰り返し頂かれる。「先生、御理解ちゃ不思議なもんです。頂けば頂く程、新たな味わいを感じます」と。私は又、あんまり借っていかれませんから、後を次々に持って行かれるように云いましたら「いいえ、そんなにたくさん借って行っても、とてもこなしきりません。もう一巻の御理解だけでも頂けば頂く程、深い味わいであり、又は言外の言とでも申しましょうか、言葉以外のものをその中から感じとる事が出来ます。それでもう本当に勿体ない程のおかげを頂いております」と云うて、二、三日前お礼に来て云うておられます。というように、確かに御理解はですねえ、本当に例えば、これ一冊に金光教の教典が納めてあるのですから、一通りこれをマスターすると云うか、覚えるとかこれを記憶してしまうという事は訳ない事なんですけれども、一通りお話させて頂いたら済むというもんじゃないです。これは、私自身もそれを本当に感じます。私は、この教典が済んだら金光大神覚書とか、又は「金光大神」なんかから頂くように思うておった。ところがとてもいくらお話をさせて頂いても頂いても同じ、例えばこの六十一節なんか何回頂いたか分かりません。けれども、もうその都度都度に新たな角度から新たな意味合いを含んだ御理解を頂いてるでしょうが。ですからおかげもそういう風に変化していく訳です。同じおかげじゃない、もう限りがない。ですからこれはやっぱり私共がその御教えをこなしていくと云うか、本当によく消化していかなければいけない事がよく分かりますねぇ。確かに尽きぬおかげを話にして残していくとおっしゃるが、正しくその通りである。おかげを受けたら神心となりて人に丁寧に話をしていくという事、又は人に丁寧に話をしていくのが真の道をふんで行くのぞとおっしゃるのですから、真の道を本気でふんで行かにゃいけんのですから。それが真の道をふんでいくのだとおっしゃるのですからね。人に伝えて真の信心をさせるのがとおっしゃるから。私共自身もやはり真の人にならせてもらう、又は真の道をふんで行く、そして真の信心をさせるところまで私共信心が進んでいかにゃいけませんよね。この辺のところでお互いの信心が非常にもたついておるようですねぇ。真の人を第一目指していない。又そんなら真の道をふんで行くのぞとおっしゃるが、それを人に丁寧にお話をして人に伝えていこうとしていない。それを人に伝えて真の信心させるのが、神へのお礼ぞとおっしゃるが、その神様へのお礼が出来ていない。だからこの辺のところが、私共の信心をよく検討してみなければならない。信心が何とはなしにその辺のところでひっかかっておる、もたついておる、と云うておかげを受けてないかと云うと、おかげを受けておる。昨年は百万儲かった。今年は五百万儲かった。さぁ、今度は一千万を目指してというようにですねぇ、おかげはずーっと頂いていきよる。だから神へのお礼ぞというようなところでもです、云われればするです。だからその辺のところがですねぇ、どうも又、おかしく変わってきている。云われればそれはいやな顔もしない。いうなら喜んで御用させてもらう人もある。けれども云われんでも喜んでさせてもらうというようなところが、少し欠げてくるですねぇ。段々おかげ頂いてきると・・・・・最後に、神より上になるとは思うなとおっしゃる。この辺のところになって参りますとねぇ、誰だって神様より上になろうちゃ思うてはおらんけれども、いつの間にか上になっておるというような事が、お互い気が付かないのですねぇ。
 昨夜も御祈念を頂き終わりましてから、私はある事を神様にお知らせ頂いておりましたから、それを伝えたいと思いましてね、もう帰っただろうかと、いやまだ事務所におりましたよと云うから、ちょっと呼んで下さいと云うて呼んでもろうて、まぁ他でもないですけれど。久富建設の正義さん、それから福岡の杉山三男さん。私は昨日二人を前にして聞いてもろうたんです。他に五、六人おりました。そしたらみんな、何じゃらかんじゃら立って行って結局二人になりました。そして私は二人にね、「実は、今日あんた達にこうやって残ってもらったのはこげなお知らせを頂いたからよ」と云うて二人に話したんです。段々信心させて頂きまして、例えばこのところがね、私共が神様に喜んで頂くような御用が、いわば出来るですねぇ、真の人を目指さしてもらう、真の道をふんで行く、しかも真の道をふんで行く、それを又、人にも真の信心をさせると云ったような信心の段階というようなものを持って信心させて頂くのですけれども、その辺のところが何とはなしにもたついてくる。段々おかげを頂いて参りまして信心の事も一通り分かり、御用させて頂かんならん事もよう分かって、なる程、信心の一苦労させてもらっておる方達なんですから、信心は狂いはせんと思う。まぁいうならここでは『ごぼう』のお知らせは長く苦労をしておる。苦労しておるからどういう御用にでも使われる。そんならこれは、正義さんにしろ三男さんにしろね、私が云えばどんな御用でも致します、この人達は。私が例えば、今ちょっとお金に不自由しているよと、明日車がいるよと、まぁいろいろな事を私が云えばね、それはもう確かに何を置いてもする人達です。まぁだ私は、云うた事はありませんが。云いゃするのです。車でもいる時は、いつでもお使い下さいと。けれども私は、自分から電話かけてから「明日は、あんたん所の車を借りるよ」なんてまだ云うた事はない。けれどもやはり立派なよい車を持っておりますから、いろんな何かという時には、三男さんに電話をかけるとすぐ「はい、どうぞ」と云うて、車を自分が御用に当たって、それも例えば困ったというような顔は、さらさら感じられません。本当に気持ちよう有り難く御用させて頂く。これは車だけの事がそうじゃない。一切の事がそうである。例えば合楽に何かというような企画がなされたりしますと、やっぱりその二人共中心になって、御用頂いておる人達ばっかりです。ところが昨夜「今日私は、あんた達の事を頂いたんだけれどもね、私の御心眼に『ごぼう』と頂いたら、そのごぼうから芽が出よったよ」と私が、そしたら二人の方がハッと座り直すようにしてから、ハッと感じたらしいのです。もうあの時分によい信心をしておる。あの時分に徳を受けておる。ごぼうのような信心させてもろうておる。どういう事にでも親先生が御用せろ、とおっしゃれば「はい」と云うて出来るだけのものが、段々出来てきた。けれどもね、さぁ、云われてするようになったんではもう駄目だという事です、信心は。もういうならばね、そのごぼうに芽が出よる。皆さん知らない方もありましょうね。あのごぼうが芽が出たら中は、鬆(す)がほげてくるとですよね。そしたら正義さんが「いやぁ実は、僕も思いよるとですよ。もう朝参りをさせてもらわにゃならん、させてもらわにゃならん」と、まぁ朝参りだけに限った事じゃないけれど。まぁそういう例えば、そんなら芽が出ろうかというようなところにあるから、新たな修行、いうなら新ごぼうのね、いわば修行がです、又新たになされなきゃならないところじゃないだろうか。どうでしょうか、皆さんもこれに当てはまるような事はないでしょうか。今ここに申しました、おかげを受けたら神心となりて人に丁寧に話をしていくのが真の道をふんで行くのぞと。金光大神が教えた事を違わぬように人に伝えて、真の信心をさせるのが神へのお礼ぞと。いうなら神様が一番喜んで下さる。難儀な氏子が助かっていくという事。そこんところの、例えば御用。これはお導きをするとかお話をするとかだけではありますまい。神様が喜んで下さるという例えば御用なら、何を置いても有り難くそれをさせて頂くという事。それが例えば謎をかけられたり、ちょっかいをかけられたりしてからさせて頂く御用という事は、ちょっと考えなければいけない。神よりも上になるとは思うなと。いつの間にか上になろうとしよる。
 浜に、二人の漁師の老夫婦が住んでいた。毎日海へ出て漁をする。それが二人の生活の糧になっておる訳です。その日もやはりお爺さんは海に出て漁に出た。その日に限って漁がない。もう帰ろうかと思うたけれども、もうひと網と思うてひと漁打たせて頂いたら、かかってきたのが今まで見た事も聞いた事もない程しの珍しい魚であった。何とその魚がものを云う。「お爺さん、私をこの網から離して下さい、助けて下さい」びっくりして見るとそれは魚が云うておる。不思議な魚があるもんだと思うて、その魚を網から出してその魚の云う事を聞いておるとね、「その変わりにね、私を助けて下さったらお爺さん、あなたが求めておる何かを、何でもよい、それをかなえてあげます」と。まぁそんな事は嘘か本当か分からんけれども、半信半疑。そんならお爺さんの所に、今何か欲しいものはないですかと。云われて思うてみたら、出かけにお婆さんが何にもないみすぼらしいお家にたった一つ水瓶があった。しかもその水瓶は割れたような水瓶である。あの水瓶が新しく変わったらお婆さんが喜ぶだろうと思うて、そんなら新しいきれいな水瓶が欲しいと云うた。そしたらその魚が云う事「お爺さん帰ってごらんなさい。きっと見事な水瓶がお家にあなたを待っておりますよ」と云う。半信半疑で帰らせて頂いたら、なる程、お婆さんが座っておる横にある水瓶が、いわゆる割れたのではないきれいな水瓶があった。そしてお婆さんに、今日はこんな不思議な事があったと云うて話したらお婆さんが云うた。「お爺さん、あなたばかりは欲の無い人ですね。これだけ貧乏しておるのですから、お金が欲しいとどうして云いませんでしたか。明日行って会うたならば、お金が欲しいと云うて下さい」又翌日も行った。又、その魚がやって来た。「お爺さん、どうでしたでしょうか」「瓶はあった。けれどもお婆さんがこうこう云った」「訳ない事ですよ。帰ったらたくさんのお金があなたのお家にある事でしょう」と云うた。昨日まではね、鏡のようにないでおった海がね、少し帰りがけには細波が打っておった。帰ってみると確かにたくさんなお金の中に埋まるようにしてお婆さんが座っておった。そして又お爺さんをつかまえて云うた。「お爺さん、お金だけでは仕方ないですよ。明日は金殿玉露の家を建ててほしいと云うて下さい」お爺さんは、又その通りな事を魚に伝えた。魚は又云うた。「お爺さん、帰ってご覧なさい。きっと見事なお城のようなお家が建っておりますよ」と。今まで細波だった海がね、何とはなしに荒れ気味、何とはなしに沖の方が黒ずんで見えるような状態であったと。帰ってみたら確かに、なる程お城のようなお家が建っておった。お婆さんがたくさんなお金の中に埋まるようにして、きれいなお家に住んでおった。もうそれで満足したかと思うたら、お婆さんが又云うた。「これ程しの家に住み、これ程しの金があっても召使いがなかったら困ります。たくさんの召使いが欲しい」と云うた。そこで又、翌日お爺さんは魚にその事を伝えたら「承知しました」と云うて魚と別れて帰ったら、それこそたくさんな召使いにかしずかれながら、お婆さんがそれこそ女王様のようにして振る舞っておったと云うのである。帰る時にはね、何かしらん海の向こうでね、海鳴りが聞こえていた。それこそ不気味な感じである。それこそ女王様のようにしておるお婆さんが又云うた。「そのように便利な魚がおるならば、そういう不思議な力を持った魚がおるならば、お爺さんその魚を私の召使いにしたいと思う」とお婆さんはお爺さんに命令するように云うた。その事を又魚に伝えた。けれどもその時には、その魚が返事もしなかった。海の中に帰っていく魚が自分のヒレで船をパチッと叩いて消えて行ったというのである。今まで何とはなしに不気味に沖の方が黒ずんでいたと思うとったのがね、ものすごい勢いで海が荒れだした。あわてて帰ったお爺さんが浜に帰った時に、又みすぼらしい家の中で割れた瓶の前でしょんぼり席かけておるお婆さんの姿があっただけだという話なんです。私はこの話をさせて頂くたんびに聞くたんびにね、本当に金光様の信心させて頂く者は、このところをね、本気で分からなきゃいけない。それこそお金に不自由した、命があるやら無いやら分からん。といったようなところから段々おかげを頂いて、さぁ百万円貯まった、次にはもう二百万円、さぁ五百万、一千万と例えば貯まっていく事が楽しみになってきた。なる程、おかげを思うておった。おかげと思うておるから、云われりゃどんな御用でも「はい」とさせて頂けれる程しのおかげを頂いたけれどです、何とはなしにそういうおかげの過程の中にです、今まで例えば鏡のように平生であったそこに、細波が打ってきたり自然はいつもそうなのである。私共の周囲、周辺に細波にも似た、又海鳴りにも似たような、そういうものの例えば自分の周囲の変化という事に気が付かないところにね、おかげを落とす、いわば慢心は大怪我の元とおっしゃる大怪我の元がある。神より上になるとは思うなというのは、そういう事ではなかろうか。えてして人間という者は、それこそ追えばびびんちょこにのるといったような性分を持っておるのが人間。大抵なところで本当にどんなに考えても有り難い。昨夜の御理解ではないですけれども、この六月の信心の焦点、お互いここに取り組もうじゃないかと、これは私のね、もう切実なる皆さんへの願いだとまで、私は申しました。又事実そうです。それはね、信心させて頂く者の家庭がね、円満でなからなければならないという事。それもね、その円満の内容が「仲良う楽しゅう有り難う」という、この三つの内容が含まれておらなければならない。仲良うやっておる所はたくさんありますよね。それこそ波風も立たんごと、あなたこなたと云うて大きい物音もせんごたる家もありますけれども、何とはなしに冷たいと云うか、何とはなしに楽しさなんて感じられない家があります。仲良うしとるごたるけれども、それが本当の仲良い証拠ではないからです。マイホーム的と最近よく云われますが、なる程、本当にその人の家だけは、それこそ楽しゅうやっていっておる家庭はたくさんありますよね。仲良ういろんな工夫を又しております。人の事なんか問題じゃない。もう自分の家だけが楽しゅう具合よういけばもうそれでいいという、いわば仲良う楽しゅうやっておる家もあります。けれどもそれではいけんのです。仲良う楽しゅうどんなに考えても、お母さん有り難い事じゃないかと、いうなら親子が夫婦が兄弟が、おかげ頂いておるからこそこういう生活が出来るんだ。いついつの時代の事を思うてみたら、どげん思うてもおかげ頂いておる。不平どん云える事じゃない、不足どん云える事じゃないという事がね、仲良うであり又楽しいという雰囲気が出来てくるというおかげの持つ内容がね、そういうおかげになってこなければならない。仲良う楽しゅうやっておるうちに有り難いものが欠けてくる。そこからね、少しずつ間違ってくる。ここの内容にある、真の道をふんで行くとか、信心をさせるのが神へのお礼とか、そういうようなところにです、積極性がなくなってくる。自分が助かるではない。人が助かっていく喜び、人が助かって下さる楽しみといったようなものがない。この有り難いものをね、人に伝えなければおられない。例えばそんなら私がね、云っておる本当に何と云うても信心させて頂く者の家庭が円満でなければならない。信心は家庭に不和の無きが元とおっしゃる、家庭に不和の無いその事がおかげの受けものなのだから。私共が難儀困迫の時代ににです、親子が兄弟がどのような在り方であったか、本当におかげを受けるはずだというようなものが、あの時分に段々出来ておった。それが今日の合楽のおかげのもといをなしておるという事を分かれば分かる程、皆さんにもです、仲良う楽しゅう有り難うというところの信心を、皆さんにも体得してもらいたい、分かってもらいたい。それが何とはなしにです、云われりゃ御用はさせてもらう、ちょっとちょっかいかけられると、ああそうだと気が付く。私は、これは三男さんの場合でも正義さんの場合でもね、何とはなしに、もう細波ではない。何とはなしに沖合いにね、黒ずんだものを感じておる。海鳴りを感じておるようなものを感じたから、私は昨日、二人にその事をこんこんと話した。いかにいつでも御用が出来ます、どういう事でも御用が出来ます。なる程、御用が出来る程しにおかげを頂いておる。お金で来い「はい」、力で来い「はい」と、どのような事でも云われりゃ「はい」と応えれるだけのおかげを頂いてきたけれども、それが云われてしなければならないような事ではね、もう神より上になるなと思うなとおっしゃるけれども、もうその辺のところを、私は感じる。いわゆる、ごぼうの芽が出よる。鬆(す)がほげたらどうするかと、使うてくれと云うたっちゃ使わんという事になってくるんです。お互い信心をさせて頂いて、本当におかげを受けなければならない。それには今月の焦点、いよいよ家族を上げて親も子も孫も、あれだけ熱心な信心をするけれども、家内が第一ついてこないでしょう。「先生、私は二、三日前から考えて家内に朝参りの事を云うた」と、そしたら「ああたが朝参りしなさったら、私しゃ眠られん」とこう云うた。「それから実は、先生、私はその日からね、もう別の部屋にやすみよります」と昨日、私がその事を云うたら云うのですよ。大体もう気付いてきよるとですよね、少しずつ。だから今夜も泊まれと云いなさりゃ泊まる覚悟であったごたる風。何とはなしに夫婦の中に、そういうようなものが生まれてきた。ああたが朝参りしなさったら、私しゃ眠られんと。それでもあの人は、神様に対する思いは強いから、俺が信心を邪魔するなら、という意味でしょう。そんならお前とは一緒に寝らんぞと云うて、隣の部屋に行って、ここ何日かはやすみよると。それではおかげにならん。まあそれでもね。それで正義さんに云いました。「それが、又、夫婦仲良うして行く事の為の元になる事ならね、それもよかろう」と私が。私がいつも申しますように家内は、それこそもう本当に最愛の家内である。親はもう世界中探したって、親が一番大切なものなのである。けれどもね、神様の仰せには背かれんというのが、私の生き方なのである。神様第一主義なんだ。だからおかげを頂いてその時には、家内にも不自由させたり親にも心配かけたけれども、その心配をいわば不自由させた家内にも、いわば愛し続ける事の出来るおかげを頂けて、一番大切な親も大切にし続けさせて頂いて、神様の方はいよいよ狂いのない有り難いものにしていく事が出来てきた。だからそういう意味でね、まぁいっ時夫婦仲が悪かつもよかろうと、私がそれこそけたぐって来るごとしてから、朝参りでもするならそれでもよかばい、と昨日申しました事ですけれどもね。まぁあの人の事だから、その辺のところに気が付きよる。これは三男さんに云うても同じような意味の事が云える。とにかく、まぁ本当に商売はもう不思議でたまらん位におかげ頂きよるとですよね。ところが何とはなとに・・・それこそ昨日顔色が冴えん。あん人があげな色の黒かつに、顔色の冴えんてんなんてんちゅうたっちゃ、そげんピンとこんごたるばってん、ほんなこてようと見たら顔色が悪かもん。そしたら隣の雷さん(西岡雷太郎氏のこと)が云いござるとです。「いいえ先生、この頃社長はちょいと心配が出来とります」とこう云う。「ね、そうじゃろうが」とだからね、本当にこの辺のところでもう、ごぼうの芽の出よる自分達という自覚に立って、新たな修行、新たな信心がつけていかれんと、神より上になるような事になる。そしたらどういう結果になるか。本当に早おかげとでも申しましょうかね、信心が本当に出来んのにおかげを先に頂くというのは、ある意味で危険です。二人の場合は、信心はここでは第一級の信心を頂いておりますけれども、何とはなしに芽が出だした。というように神様はね、神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にして残しておく。尽きぬおかげを頂かなければならん為には、もう分かっとるというその分かっとる信心からもういっちょ深く広く分からして頂かにゃならんところに、直面しておるのだとこういう訳なのです。尽きぬおかげを頂く為には、やはりもう次の新ごぼうがまかれたり、もう芽が出とる位のおかげを頂かにゃ出来ん。私は昨夜、正義さんの話を聞いてから、ははぁ、もうごぼうの芽が出よる事は出よるばいのうと思うた。もう夫婦が何日間も別室でやすみよるという位ですから。夫婦喧嘩せろっちゅう意味じゃなかばってん、それがね、ほんとにおかげを又、いわゆる「仲良う楽しゅう有り難う」仲良う楽しゅうのところは、もう通って来とるとじゃから夫婦が有り難う「お父さんどげん考えたっちゃ有り難かですね」と家内が云うてくれる位のところまでいく為には、そりゃあまぁ仕方なかろうとこういう事なのです。
 今日は六十一節を、特に神より上になるとは思うなというところをね、私共の信心の中からおかげ頂いていかねばならないと思います。「いいえ、神より上になろうなんてん、夢思いません」とみんな云うてもおりゃ思うてもおるけれども、いつとはなしに何とはなしに段々おかげを受けてきますと、もうおかげのところだけに焦点がおかれてですねえ、信心の事が疎かになり、御用でも云われりゃ「はい」と云うて思い出したように出来るけれども、云われなければ段々やはり気が付かないで、それこそ悔が黒ずんでおってもいわば細波が波立って来てもそれに気が付かないような事になってです、元の黙阿弥になるような事では、はじまらないですからね。お互いがそこのところを本気でひとつ、心して信心を進めていかにゃいけないと思いますね。どうぞ。